自宅ごはんを中心に、まあまあ幅広いトピックを扱うくりたです。
書に久々に触れる展覧会
書の展覧会に行きました。

京都、観光客が大勢訪れる八坂神社から清水寺の間にある石塀小路と呼ばれる車は入れない小さな風情ある道にあるギャラリー悠玄での渡辺裕子個展「書・そこは風が見えるまち」です。
渡辺裕子さん、通称なべちゃんは昨年旅行好きの友人とのつながりの中で知り合った書家です。
去年とある展覧会に初対面ながら二人で観に行くことになり、その際話した内容というか彼女の表現への姿勢にとても好感を持ったので、ぜひ一度ナマの彼女の作品を観てみたいと思っていたので、よい機会でした。

私はあまり書には親しんでおらず、普段展覧会に足を運ぶことも稀なのですが、20年ほど前石川九楊の個展を見たときに、目が開かれるような驚きを感じたことを今でもよく覚えています。
書道といえば学校の授業で習う、いわゆる美しい字を書くことに注力することしかほとんど知らず、書家と呼ばれる人がいることくらいは知っていましたが、彼らの作品そのものは私の遠いところに存在していました。
石川九楊の個展はたまたまチケットをいただいて、家の近所だったので足を運んだのですが、筆が自由に白い紙の上でうごめいているさまが、書であるとか絵画であるとかいうジャンルの存在を忘れさせ、ただ表現としての躍動感と豊かな語りに感銘を受けました。
ただ、その後積極的に書の展覧会に通うこともなかったので、今回は久々の書との対峙です。
「風」を可視化する

改造した蔵の階段を登って最初に見える暗い中に浮かび上がる力強く流れる墨跡を気に留めながらも会場の中へ。
そこに広がっていたのはギャラリーの壁を床から天井までを埋め尽くす圧倒的な作品量でした。

物量に少々圧力を感じつつ作品を見ると、そこには石川九楊の作品を見たときにも感じた自由さが溢れていました。
髪の毛のような細い線から、塊となって迫る画面まで、どれも同じ筆という道具で書かれたとは思えない繊細さと大胆さが感じ取れます。



今回は「風」という、字はあっても実際に見えるものとして存在していないものを、いかに可視化して表現できるか挑戦したとのこと。
風は目には見えないけれど、確かに存在することを私たちは知っています。
肌に触れて気持ちがやわらいだり、強い力で身体ごと持っていかれそうなほど暴力的であったり、花の香り、潮の香りを届けてくれたり、そのものに音はないけれど、木々や窓やさまざまなものを自らが揺らすことで音を立てたり。とらえどころがないけれど、私たちの身体や心に触れていく存在。
誰もが知っているけれど知らない風、それは確かにこの空間にはありました。
若柳のように細くしなやかな風。身体ごと吹き飛ばされそうな渦巻く暴風。どの作品にも空気の揺らぎや触感を感じさせるような「流れ」が感じられます。
この「流れ」はどこからくるのか。
丁寧に作品を見るとその手がかりが得られるような気がしました。
それはこの美しい軌跡。
力強く、しなやかで自由な墨のあと

一見すると力強い太筆の一筆書きのように見えますが、中心となる力強い描写の周囲に非常に繊細な線や墨溜まり、点が多くあることに気づきます。
在廊していたなべちゃんに少し作品解説をしてもらったところ、この作品は太い筆で土台を書いたのち、周りの繊細な線は細筆で後から書き足しているのだそう。
書にそんな書き方があるなんて!これはまさにペインティングとも言える書ではありませんか。
それにしてもこの美しさはなかなか凄みがあります。力強いけれど力任せでない、頭で引いた線ではなく、筆の勢いを削ぐことなくそれぞれの毛先はあくまでも繊細で正確で、時折こらえきれなくなったように膨らんで滲み、また行き先を見つけて流れだす。
そう、この規則的に見えてそうでない軌道の変化と力の変化が同時に起こる、この動きそのものがとらえどころなく確かに存在する風のように感じられます。
感覚に身を委ねれば、ここに展示された作品が書であるのかどうか、文字であるのかどうかということは気にする必要のない些細なことでしかありません。
わずか墨という一色の表現が、こんなにも豊かにエモーショナルにあるということ。
季節は梅雨ですが、ギャラリーの中では初夏のような清々しさと溢れるエネルギー、そして風が満ちていたのでした。
渡部裕子さんは名古屋を拠点に活動していて、レストランやホテルなどにも作品があるそう。もしも名古屋を歩いていて、切れ味の良い繊細で力強い書をみかけたら彼女の作品かもしれません。
