自宅ごはんを中心に、まあまあ幅広いトピックを扱うくりたです。
20日に再開と予告しつつ、一日遅れてしまいました。
特に楽しみにされていなかったかもしれませんが、申し訳ありません。
これからまた以前のペースで更新していこうと思いますので、よろしくお願いします。
注目の日本初公演!
久々にコンテンポラリーダンスを観に行きました。
コンテンポラリーダンスは高校生の時に勅使河原三郎さんに魅了されて以来、途切れることなく細々と観続けています。関西では私がそのそのジャンルを知った80年代からダンスや舞踏などを踊っている人たちは結構たくさんいましたが、当時は公演する側も観客側もダンス関係者で回っていて、観客が育っていないなという印象が強かったです。
2000年前後、まだ日本の舞踏の祖とされる土方巽さんに薫陶を受けた大野一雄さんがまだご存命で、東京ではチケット発売と同時に即完売でも大阪はまだまだ普通に変える、という状況がありましたし、東京の新進のコレオグラファー(振付師)の公演でも関西公演では足を運ぶとお客さんはわずか30名ほど、ということがざらでした。最近は流石に人気の公演は売り切れる場合もあるなど、ダンスファン不毛地帯からは抜け出してきているようです。
そんな中、話題の公演が来日!今回のディミトリス・パパイオアヌー「THE GREAT TAMER」です。
ディミトリス・パパイオアヌー 『THE GREAT TAMER』 ビジュアル・演出:ディミトリス・パパイオアヌー 日時:2019年7月5日(金)19:00 6日(土)15:00 会場:ロームシアター京都 サウスホール
こちらも関西の二日間公演は両日とも売り切れ。数少ない当日券を求めて開場まえに並ぶ人々が結構いました。
想起される数々のイメージ
ディミトリス・パパイオアヌーはギリシャ出身でアテネオリンピック開幕式の演出を手がけ、伝説のコレオグラファーであるピナ・バウシュが率いたヴッパタール舞踊団の、ピナ亡き後初めてのオリジナル作品の振付を担当したということで、ダンス界では大きな話題となっていました。
私はあまり彼についてはよく知らなかったのですが、その経歴で「これは観なければ!」と思い、とりあえずチケットをとって、予備知識なしに当日出掛けました。
会場に入ると舞台前から奥にかけてなだらかな傾斜が作られ、その上には黒く塗られたベニヤ板のようなものが隙間なく重ねて敷き詰められています。
その舞台の中央やや下手側(観客から見て左側)にダンサーと思しき男性が一人、黒いスーツを着て仰向けに寝そべっています。
ここ10年ほどのダンスの潮流として多く見られる、開演前から公演が始まっているというパターンのようです。ダンサーが一人、あるいは複数でステージに存在していることで、観客はダンサーが舞台にいることに馴れ、開演前と開演後の空気感の変化を緩やかにする効果があるように思います。
やがて場内アナウンスが流れ、客席の灯りが落ちて開演です。
J.シュトラウスの「青く美しきドナウ」が流れ始め、ほどなく開演前に舞台上で寝そべっていた男性ダンサーがスーツを脱ぎ始め、完全に全裸になってしまって少しびっくりしましたが、その後も様々なダンサーが男性女性問わず全裸あるいは半裸になることが多く、もしかするとパパイオアヌー氏はそういう芸風なのかも知れません。
そのうちに今度は宇宙服を着たダンサーが登場することで、ある映画が想起されます。S.キューブリックの「2001年宇宙の旅」です。1968年に公開され、日本でも大ヒットし、その後も伝説的な映画としての誉が高いので、ご存知の方も多いと思いますが、もしもご覧になられている場合はきっと私と同じようにこの公演の冒頭で、映画のことを思い出されるでしょう。それくらいに強いイメージが舞台上に立ち現れます。
かといってこの作品が「2001年宇宙の旅」のオマージュ的作品だったかというとそうではありません。オマージュだとするとそれはあくまでも、この映画の鮮烈なイメージに対するものであって、作品の本質とは直接的に関わらないものです。
作品の本質と関わらないイメージの想起、という点では、この公演では次々にまた違う既視感のあるイメージが展開されます。
主に思い当たるのはルネサンスから近代に至るヨーロッパの名画の数々。時折ダンサーが一人あるいは複数であまりにも完璧な構図のために静止している、あるいは絵画が動いているように見えるシーンが数多くありました。
これらもまた、「2001年宇宙の旅」と同じく、特に作品のもつテーマ性とは直接関連はなく、あくまでも動きの中の美しく完璧なシーンとして取り入れられているようです。
ブリコラージュされた空間と時間
こんな形式のダンスの公演では初めてです。
あるテーマがあり、象徴的に同じシークエンスが繰り返し挿入されるパターンはよくみられますが、今回のようにテーマ性とさほど強い繋がりが感じられない中で、既存の作品が複数に渡って想起されるように配されたステージ。これは何かなと考えていて思い当たることがありました。
ブリコラージュです。
ブリコラージュとは、「寄せ集めて自分で作る」「器用仕事」「ある目的のためにあつらえられた既存の材料や器具を、別の目的に役立てる手法。」とあります。美術用語ではある程度一般的で、それを制作の中心の手法として用いる作家もいるくらいなのですが、動的なダンス公演の中で絵画、映画、または他のダンスなど様々な表現媒体を横断して作品を作り上げるというのは、なかなか冒険的なやり方です。
興味を持って調べてみると、パパイオアヌー氏は元々は美術畑出身で二十歳前後にダンスと出会うまでは画家、漫画家として活動経歴があり、現在も自らをコレオグラファーではないと考えていると、しばしばインタビューでも答えています。今回の作品「THE GREAT TAMER」でも自らの役割を「コンセプト、ヴィジュアル構成、演出」担当と位置付けています。
なるほど、彼は自らを「コレオグラファーではない」と定義することによって、ダンスの世界における「公演全体の動きを自らで全て作り上げなければならない」という制約からの自由さを獲得しているようです。
彼が自らの表現の中で目指しているのは「時間の彫刻」とのこと。
そう思って思い起こすと、公演時間約1時間超の間中、ダンサーは動き続け、場面は変わり続けつつも、どの瞬間にも照明、舞台装置、ダンサーの肉体と動き、表情が非常によく制御され計算尽くされた構図となり、息を呑むような緊張感と静謐さに溢れていました。
ひとつひとつのシークエンスを瞬間として切り取っても完璧に整えられた空間と時間が出現する。
「ポスト・ダンス」というべきもの
彼のワークショップの動画も参考に観てみました。
イメージと身体を一致させること、身体はひとつの塊ではなく腕、肩、上腕、指先などそれぞれのパーツを頭で理解して「動かす」のではなく、感じたイメージと一致して自発的にそれらが「動きだし」て表現として形成されていく。
しかも舞台上では一人ではなく、複数の身体が同時に同じイメージを具現化して空間の中に刻印する。初めからダンスとしてそれらが存在するのではなく、瞬間瞬間のイメージの繰り返しにより、結果としてダンスのように見えてくる。
パパイオアヌー氏が行なっていることは、ダンスの振付ではなく、動きを完全に解体したところから一瞬一瞬を積み上げていくことにより、時間が形作られ、再び観る者が動きとしてそれらを捉えることもできる連続した瞬間の形成、ということ。
それはポスト・ダンスともいうべき概念ではないでしょうか。
音楽の世界では1980年代後半から既存の音を切り取り、それを編集・再構成することによって新たな音楽を作り出すサンプリングという手法が開発されました。
やがてそれが発展し、ハウス・ミュージックという作曲よりもむしろ編集を重視する音楽へと繋がっていく。
文学ではウィリアム・バロウズがカットアップという手法によって、もともとある小説をバラバラに解体し、再構築することで文学そのものを解体する試みがなされました。
どちらもそれぞれ既成の「このジャンルはこうあらねばならない」という無言の規律に対する反骨と挑戦です。
パパイオアヌー氏の手法にはそうした意識的なダンスに対する反骨性は感じませんが、結果として既成のダンス概念を変える試みになっているところが、とても興味深い。
幼少時からダンスを始めたのではなく、すでに絵画という表現手段を自ら身につけていたがゆえの、表現したいものに対する手法の変化くらいの意味合いなのかもしれません。
それは非常に今日的で、だからこそヴッパタール舞踊団という現代のコンテンポラリーダンスの巨星ピナ・バウシュを失ったコミュニティにも受け入れられた理由ではないでしょうか。
アンチ・ダンスではないアプローチからのダンス超えともいうべき作風は、いくつかの作品を経てこれからどこへ向かうのか。時間の彫刻性の行き着く先について経過を楽しみに観続けることにしたいと思います。