新年は腸炎とともに厄落とし

くりたです。

オリンピックイヤーである2020年の幕が上がりました。

といって何かが突然変わるわけもなく、昨日の続きに今日があり、2019年の続きに2020年がある。ただそれだけ。けれども人は、年が改まるとなぜか自分も新しく生まれ変わるような、もとい生まれ変われるような幻想をつい持ってしまいます。

私も例外ではありませんが、今年は何と元旦から腸炎で斃れることに・・・とはいえ、大概人よりも前向きかつ視点の変換が得意という思い込みから、こう思うことにしました。

元旦に具合が悪くなったということは、一年の穢れをすでに落としたということ

何と都合の良い解釈だと我ながら感心しますが、そう思ってこうして文字に表してみると、本当にそのように感じられてきて、言の葉=言霊の力を感じます。

素晴らしい文章への道のりは遠いが、

私はこのようにブログなぞ開設して言葉を連ねているということもありますが、当たり前ながら言葉っておろそかにできないなと思います。

現代はSNSの発達により、かつてないほど人類が言葉を使っている時代だと言われたりもして、世界ではあらゆる場所であらゆる言語が瞬時にインターネットで発信され、爆発的な量が流通しています。

あまりにも大量だからもちろん誰もそのひとつひとつ全てを把握などできないのですが、把握できないこと=ないことという解釈も理論的には可能です。現代の若者はその辺りの情報遮断力がものすごく高く、嫌味でもなんでもなく本当に自分にはない能力だなと思いますが生憎昭和生まれの私には私としての能力がすでにほぼ確定されているので、存在しているものをないこととしてシャッターを閉めてしまうことが現実的にできません。

若者も本当はそうなんですよね。私よりも格段にシャッターを閉める速度と力は強いけれども100%ではない。

だからこそSNSでのいじめが要因のひとつとなって心の病に罹ったりすることもあれば、難病の人が同じ病の人たちと励ましあって、実際にはなかなか会えなくても心の支えになるコミュニティを作ったりもできます。

言葉は薬と同じ。良い方に作用することもあれば、ものすごく悪い方向に導くこともできる。

当たり前のことですが、人は当たり前のことは普段あまりに自然にあるので気がつかないものですよね。

気をつけようと言っても、生きていれば気をつけないといけないことが星の数ほどあるし、許容量にも限界があるので、ついうっかりということが起きてしまうことも日常茶飯事。

しかしそれで良いのではないかと思ってます。

1000本ノック、諦めないで、時々サボっても続けていく

いい加減な言い方かもしれませんが、毎日全方向に気をつけることは不可能だけれど、折に触れて「ここは気をつけよう。」とふと気に留める。その気に留めるという意識が大切なのではないかと。

言葉に気をつけるということは姿勢の問題なのですが、姿勢とか性格は「はい、では明日から変えましょう!」と洋服を着替えるようにはいきませんが、少しずつ努力で変えていくことはできます。ゆっくりと身体に染み込むように何度も何度も自分に対して繰り返していって、身体にその意識を植えつけるという気持ちを持つこと。

スポーツや楽器の練習と同じこと。最初は全然できなくてイライラしたりしても、とにかく続けていると、何ヶ月か何年か経ってふと振り返ると、あんなに何も弾けなかったピアノの練習曲がいつの間にかつまづいてでも弾けるようになっていたりした経験を、誰でもひとつくらいは持っているのではないでしょうか。

自転車に乗ることだって、お金の計算をすることだって、今私たちがそれぞれできることのほとんどは最初は何もできなかったに違いないけれど、何回も何回も繰り返すことで何も考えず無意識に行うことができる。

それは能力ではなく経験で学ぶこと。

競輪選手になるには特別な才能が必要でも、街中でサイクリングをすることは、誰でもできる。

だから、素晴らしいプロフェッショナルな文章の才能がなくたって、誰かに読んでもらえる、何かを感じてもらえる、気持ちが伝わる文章も1000本ノックのように続けていけばきっとかけるようになる筈。

時々休んだりサボったりしながらも2020年のブログも、凡人らしくほどほどに続けますので、お時間ありましたら時々読みにきて、何かを考えたり感じたりしてもらえるように努めようとゆるい抱負を設ける年明けです。