自宅ごはんを中心に、まあまあ幅広いトピックを扱うくりたです。

お茶という丁寧な時間の中での「気づき」

以前から読んでみようと思って果たせていなかった森下典子さんの『日々是好日』を読みました。

長年にわたる茶道のお稽古の中で見つけた日々の気づきについて丁寧に綴られています。

エッセイの中では時がスローモーションのようにゆるやかに、大切に流れていくようで、森下さんご自身がお稽古の中で豊かな時を過ごされていたことが感じられます。

多くの人に長く愛されているこの本は、昨年映画も公開されて、同じく昨年惜しまれながら亡くなった樹木希林さんと黒木華さんの出演で、私は未見ですが友人知人の間でも関心が高いようでした。

この本や映画に触れたことで茶道に憧れを抱かれた方も多いだろうなと思います。

けれども本質として、この本に描かれている「気づき」は茶道を通じてしか得られないものではありません。

新潮文庫の解説で柳家小三治さんも、この本はお茶について書かれているけれども、お茶の本ではないのだとおっしゃっておられます。

経験からしか本当に理解できないこともある

私は人生もほぼ折り返したような年からお茶を始めましたが、お稽古の中で「やっぱりそうだよね。」と、自分の経験と気づきをお茶を通じて再確認するというようなことがよく起こります。

再確認するということは、既知の状態ですから、お茶のお稽古を始める前に既に私自身がそれを知っていた、ということ。

それはほぼ半世紀も生きてきた中で、回り道しながら何とか勝ち取ってきた、小さいけれど大きい私自身の経験から生まれてきた気づきの数々。

この本は「『お茶』が教えてくれた15のしあわせ」という副題がついていて、もちろん森下さんご自身はお茶を通じて発見されたことが書かれていますが、短絡的に「お茶を習えばこれらがわかる」「お茶を習わなければ知ることはできない」ということではないのです。

現代はスピーディーで効率化を求めるので、何でもすぐに結論を出そうという傾向があるように感じます。

この本を読んで「お茶ってそうなんだ!」「お茶はこういうことを教えてくれる。」

それは間違いではなく、お茶を通じて学ぶことは多いと思います。けれどもそれだけがここで森下さんが発見された気づきへの道ではないことも考えたい。

ここで語られていることはお茶そのものではなく、五感と脳が結びついていく過程です。

現代はあまり複雑さは歓迎されていないような雰囲気があります。けれども、長い時間をかけ、自分自身の経験を一つ一つ積み重ねることでやっとできた複雑さの複層化には実に味わい深い世界が広がっていて、それを知ることは人生の豊かさへと繋がる。

あらゆる場所、あらゆる時に豊かさは存在している

書かれていることだけが、書かれていることではない。

「気づき」はあらゆるところに存在している。

朝起きて感じる空気の温度に。

カーテンを開けた時の外の明るさと室内に差し込む光の中に。

五月の鴨川沿いを歩く時、ふと感じるジャスミンにも似たテイカカズラの香りの中に。

石の堤防を花器のようにして伸びる草花の生命力の中に。

毎日は毎度同じ一日ではなくて、日毎に違う一日であることを知る。

それは他ならぬ自分に備わる豊かさであることを、他者の経験ではなく、自分の経験から発見すること。