自宅ごはんを中心に、まあまあ幅広いトピックを扱うくりたです。

アート鑑賞は気負わず、感じるままに

今日はもしかしたら、今までの投稿の中でも最も皆さんに馴染みがない話題かもしれません。

現代美術です。

フェルメール展は行くけれど、現代美術はわからないから行かないという方は多いと思うのですが、そんなに構えることでもない気がします。わかるわからないはそれほど重要ではなく、何か感じることがあればそれで良いと思っているので。大体本当の意味なんて、作った作者にしかわからないし、場合によっては作者自身もわからないからこそ、言葉でなく形にしているということもあるのですから。

とはいえ、今日はこの展覧会の後に香雪美術館でやっていた「明恵の夢と高山寺」にも行ったのですが、明らかに香雪美術館の方が人が入っていて残念でした。香雪美術館ももちろん良いのですけどね。

世界有数のアーティスト、C.ボルタンスキーの日本初回顧展

さて、今日行ってきたのは大阪国立国際美術館でのクリスチャン・ボルタンスキーの日本で初めてとなる大規模回顧展「Lifetime」です。

ボルタンスキーは1944年生まれのユダヤ系フランス人で、ナチスのホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)をモチーフとした作風で知られます。

私が彼の作品を初めて観たのは1980年代に制作していた「モニュメント」という無名の人々や子供のモノクロのポートレイトを小さな白熱球と組み合わせて、まるで祭壇のように見える作品でした。

当時は彼の名前くらいしか知りませんでしたが、薄暗い空間に浮かび上がる作品を観た瞬間に宗教的な静謐さと悲しみ、予期していなかったのに急に墓標の前に立ってしまったような怖さを感じました。

後で彼の来歴について知り、それ以来日本に作品が来るたびによく観に行っている好きな作家の一人です。

今回は1969年の初めての映像作品から、今回の回顧展のために制作された最新の作品まで、彼の作品をある程度俯瞰することのできる、非常に貴重な展覧会です。

軽くはない、けれど理解しやすいストレートな作風

どうしても暗い印象の作品が多いので、好みは分かれるところだと思いますが、何かに思いを馳せたりすることが好きな方には観ていただきたい展覧会です。

本当は作品のひとつひとつに対して語りたいところですが、そうするととんでもなく長くなってしまうので、ほんの少しどうしても言いたいことだけ。

作品は風に揺れるオーガンジーのような軽やかな素材を用いていても、軽やかさは感じず、どれも重たく感じます。でもそれらは決して難解ではなく、どれも多くの人が理解できるようなストレートな作風だと思います。

ホロコーストの作家だと最初に紹介しましたが、表現しているものはホロコーストそのものではなく、観る側の私たち誰もが同じ立場にあったり、これから私たちに起きるかもしれない事象についてです。

それはつまり、かつて存在していたけれども今は失われたもの、ひとりひとりやひとつひとつは違うものなのに、それらが大量に集まった時、個性は失われ、それぞれを認識することのできない状態に陥ってしまう。

でもその塊はときほぐせばそれぞれの生が間違いなく存在している。

言葉で語ると少し難しく感じるでしょうか。

失われる個に思いを馳せる

例えば下の写真を観てください。

これは実は2つの作品を同時に組み合わせた展示なのですが、2つを合わせてみるとわかりやすいです。

奥に見える黒い山のようなものは、手前に見える黒っぽいコートと同じような上着を大量に積み上げられてできています。

手前のコートを着た人が歩いているのような作品には音声プレーヤーが仕込まれていて、まるでそのコートの主であるように何かを時々語ります。フランス語なので内容はわかりませんけど。

そのため手前の作品はある特定の人物であると感じることができます。

けれども奥の小山は同じような上着が何千着と積まれていることで、もはやそれらは単に大量のコートが積み重ねられた山にすぎず、ひとりひとりの存在を感じることはできなくなってしまっています。

この事象は、例えば災害の被害について置き換えることができます。

ある災害で100人の方が亡くなったとします。その100人の人々はきっと年齢も性別も色々で、それぞれの人生と家族があったでしょう。彼らが亡くなったことで、近しい人々は彼らの死を悲しみ、在りし日の彼らの思い出を思い起こし、それぞれで掛け替えのない痛みを感じるでしょう。

けれどもニュースで報道される時、それはある災害で100名が亡くなったという事実が伝えられるのみで、それぞれの人生や残された人々の思いは伝わりません。

ボルタンスキーはその個と集団の間に失われたものについて私たちに問いかけているようです。

普段気にも留めない誰かの死や不在、集団や報道というフィルターによってそれらは個々の存在から、私たち自身とは切り離された単なる出来事として語られ、認識されてしまうかもしれない。

でもその認識から踏み込めば、彼らが他には置き換えることのできない存在であることに気づくこともできるのです。

この展覧会は5月6日に大阪での展示が終わった後、東京の国立新美術館、長崎県美術館にも巡回します。もしも興味のある方は、ぜひ訪れてくださいね。