自宅ごはんを中心に、まあまあ幅広いトピックを扱うくりたです。
体験を語るアートレビュー

先日根之木正明展のレビューを読んだ友人が、美術作品を歴史や作家の文脈や現代の背景などを扱わずに、また物語化をせず、視覚体験を読み物にするという試みが面白いと言ってくれました。
実のところ私は美術史を専門に学んだこともなく、世界の美術史のごくごく大雑把な流れと現代美術とデザインに少しだけ詳しいという位の中途半端な知識しかないので、逆にそういう情報的な紹介の仕方はあまりできません。
これは甘えでもあるのですが、一方で昔から美術史や技法、思想など客観的要素から美術を語る手法について疑問を抱いていました。日本では現代美術の愛好家がものすごく少ないことは、美術関係者なら誰でも知っていることですが、こむつかしい評論やレビューが直接的にも間接的にも人々を遠ざけているのではないかと。
イベントとしての成功と人々の作家や作品への興味は別?
現代美術を象牙の塔としておきたいのなら、今のままでも十分かと思います。
現在は私が現代美術に興味を持ち出してから30年の間でも、もっともそれらに世間的な注目が集まり、かつてないほど作家たちの表現の場も増えていると感じます。
全国的にそこかしこで大小の芸術祭が開かれ、人々はレジャーの一環としてそこに訪れる。
今最も日本で成功しているのは瀬戸内芸術祭だと思います。今年第4回目を迎えますが、私は2010年の初回に訪れて、そのあまりの混雑ぶりにちょっと驚いた記憶があります。
現在このブログのトップページに掲載している私の写真は、その時撮影したものです。現在も豊島に恒久展示されているクリスチャン・ボルタンスキーの「心臓音のアーカイブ」。この時も割と朝早く出かけたにも関わらず2、30人くらいが入場待ちをしていたし、同じ豊島にある内藤礼の豊島美術館は1時間待ちと言われて諦めた記憶が。フェリーに乗るのも何をするのもとにかく人がたくさんで大変でした。以来足を運んでいませんが、恐らく今も同じような状況かそれ以上かと。
瀬戸内芸術祭はほぼ現代美術作品ばかりのアートイベントだし、それにこれだけの人が押し寄せているのであれば、さぞかし最近の美術館なども混んでいそうなものですが、ところがどっこいです。全然混んでいません!
瀬戸内芸術祭の出品作家の展覧会などにも足を運んでいますが、本当に現代美術の展覧会は人が入らないんです。
各地の芸術祭に人が押し寄せているのは、皆がアートに興味があるというよりも、イベントとして楽しんでいるからなんだと実感するエピソードです。
「わからない」といけないのか?
でもどうしてイベントとしてなら足を運ぶのに、展覧会には行かないのか?
いわゆる名画がたくさんくるルーブル美術館展やオルセー美術館展などをはじめとして、最近では伊藤若冲や曾我蕭白といった日本美術展も入場に待ち時間が出るなど人気の展覧会はたくさんありますが、現代美術展で入場制限というのはとんと聞きません。
友人や知り合いと話していて時々聞くのが「わからない」という言葉。
どうも現代美術は難しいと思われているようです。確かに絵画作品以外はインスタレーションという空間全体で成立する作品だったり、意味のわからないものが並べられているような作品もたくさんあります。私も実際観にいってなんだか良くわからないなーと思うものは割と色々あります。でもわからないことが良くないことだとも思いません。
そもそも作家は観るものに「わかってほしい」と思っているかどうかも不明です。大人気の美術館展で展示されている絵画すら、作家自身が何かをわかって欲しいという思いで制作していたかどうかもわかりません。
ただ、私たちはそれを観る。具象的な絵画や彫刻だと絵のうまさやタッチや色彩を愛でて、好きか嫌いかの判断をして楽しむ。そこに書かれている絵の内容がどのような人物だったり歴史的背景かだったり、どの場所が描かれているのかといったことはその次の段階で、そういうことに興味のある人だけが楽しんだり考えたりすれば良いのだと思います。
芸術というのは例外もありますが、多くはエモーションの部分で感じることの多いものではないかなと思います。映画を観て楽しい気持ちになったり、感動したり。小説も演劇も同じだし、昔の名画も現代美術も同じようにただ、そのものを楽しめば良いのではないでしょうか。
エモーショナルな心の動きを伝えたい
映画も小説も演劇も研究者が存在していて、彼らは理論的かつ学究的立場でそれぞれを論じていますが、現代美術においてはなんとなく紹介する側の人たちが、学究的立場と紹介的立場を混同しているのかあえて触れないことにしているのか、なんだか曖昧だなと感じることが多いです。
映画も小説も観る側の大勢の人たちは、学究的な関心など持っていません。ただそれが自分にとって面白いかそうでないか、心動かされたり印象的であったり、自分の心を動かすものに出会いたいと思ってそれを観る。
現代美術も同じようにいろんな人に観てもらいたい、というのが私が思っていることです。
「現代美術は時代性が強くて評価が完全に固まっていないから、そうした評価が定まっていないものに対して一般の人が自分の審美眼に自信が持てないので、あまり近づきたがらない。」
このような考え方を美術関係者が持っていることは多いですし、私も長い間そのように感じていました。
でもそこから少し離れて考えると、映画や小説だって現代の作家によるものなら同じことが言えるにも関わらず、人々はそれぞれ自分の実際に観た印象で友人と語り合ったりすることにそれほど躊躇があるようには思えません。
物事は色々複雑だから、何でもかんでもシンプルに言い切ってしまうことはできませんが、現代美術はちょっと提供側の方でも価値を作ろうとする思いがあって、つい色々な情報を積み上げた結果こ難しい歴史的視点や難解な深読み批評を展開することになってしまい、それが逆に観客に対して前のめりになって、かえって作品を観ることから遠ざけることになってしまっているという面もあるような気がします。
誰だって単純に楽しみたいと思っているところに、あれこれうんちくを用意して待ち構えている人がいたら、ちょっとしんどいなと思って敬遠したくなるもの。
私は私が観て楽しかったり素敵だったと思う作品は、たくさんの人に観てその人たちも素敵な気持ちになってもらいたい。おいしいごはんを食べて感激したら、おいしいと思った気持ちを他の人と共有したいと思うのと同じです。
これからも時々現代美術や舞台などについてここでご紹介することもあると思いますが、読んでくださった方が、私のレビューを読んで「面白そうな内容なんだな。次は自分も観てみたいな。」とか、「感激したことが伝わってきて、なんだか自分もうれしいような気になった。」と思ってくれたらそれが一番うれしいことだなと思います。